強制しないこと。

『涙があふれてもいいじゃない』から引用します。 

著者はハルというユタの方です。この本によれば、ユタとは、沖縄のシャーマンで占いや除霊や相談みたいことをやっている人のことです。沖縄の人口139万人のうちユタは3000人から1万人近くいるそうです。

『ユタを生業として鑑定をスタートして以来、僕がこれまでにカウンセリングをした人数は延べ17万人にのぼります。相談者の年齢も職業も、実にさまざま。みなさん何かに悩み、その答を求めて鑑定ルームにやってきます。・・・

しかし、僕自身が紆余曲折を経て今の自分になったように、迷いのなかにこそ、その人の人生があると思っています。自分自身の心の声に耳を傾け、それと向き合い、決断し、行動する。どんな結果になったとしても、「自分で決断し、行動した」という経験にこそ人生の意味があるのですから、下した決断に間違いも正解もないのです。・・・

どの方向に進んだらどんな結果が出るか、将来が見えるからといって、「私の言うとおりにしなさい」と断定的な言い方はしません。それを強制する権利は僕にはないと思っています。僕が言うとおりの人生を生きてしまっては、あなたの人生ではなくなってしまうからです。・・・

僕のアドバイスとは違うけれど「やっぱりこっちに進みたい!」と思ったら、それは今その人にとって必要な、経験すべき道なのです。』

ユタという職業の方にもハルという方にも会ったことはなく、どれくらい信用できるかは知りません。しかし、人を強制しないしてはいけないという彼え方には共感します。人に考えを強制するというのは、驕りですからね。

共感とは

共感について、

渡辺和子の『幸せはあなたの心が決める』から引用します。

『私たちはとかく自分本位になりがちで、共感する前に自己主張をしがちです。・・・「私だって」とか、「私なら」と比較してしまいがちになります。

 自分が感じたことのない気持ちには共感できないので、そのためには、いろいろと自分も経験することがたいせつになってきます。

 ただ、ここで気をつけないといけないのは、同じような経験でも、他人のそれに対する感情と、自分のそれとは同一ではあり得ないという事実です。

子どもを亡くしたことのない人より、その経験をした人の方が、今悲しんでいる人に共感を抱きやすいとは思いますが、一人ひとりの経験は独特なものであって、決して同じではありません。

その事実に対しての、「まったく同じ経験はおりえない」という醒めた目と、「しかしながら、自分の経験から少しでも分かってあげたい」という温かい心が必要なのです』

 感情を受け止めてただいるだけがいい場合もあります。分かってあげたいと共感するために理由を探そうとしたり推理することが、つまり判ったように思うことが、相手にとってはトンチンカンであり、共感しないより何もしないより余計に悪い場合があると思います。

『白州正子自伝』隣組

『白州正子自伝』から引用します。

『その頃、各町内に「隣組」という組織ができて、お互いに助け合うような仕かけになっていたが、それが私には一番の苦手であった。日本人はよほど正直者なのか、そういう時には必ず世話好きな人たちがいて、指揮をとる。指揮だけならまだしも、だんだんエスカレートして来て、個人の趣味や生活にまで口を出す。きものがはですぎるとか、マニュキアが濃すぎるとか、闇米を食べるとか、・・・・しまいには「非国民」呼ばりをしてしてヒステリックになる。時代が変わっても、どこにでもいる人種である』

白州正子は、「日本人はよほど正直者なのか」と言っているが、「よほど真面目なのか」の方が合うかも。

 

「時代が変わっても、どこにでもいる人種である」と言っているが、新型コロナ騒ぎの時は、同じように「マスク警察」「ソーシャルデイスタンス警察」が大活躍しましたからね。全く同じですね。

 

 

『白州正子自伝』2

『白州正子自伝』から引用します。

『父は七歳の時に祖母に連れられて鹿児島から上京したので、子どもはなるべく田舎で育てた方がいいと考えていたのではなかろうか。学校に入る前はしじゅう御殿場の別荘へ連れていかれ、春から秋へかけて、半年くらいはそこで過ごすことが多かった。父も許す限りは家族といっしょに暮らすようにつとめていた。・・・

夏休みにはよくお客様が見えた。私が十三歳の夏には、摂政時代の昭和天皇も富士登山においでになり、二、三日滞在されてテニスに打興じられた。

良子女王と御婚約中で、世間は御成婚の話で持ち切りだったのが、よほどお嬉しかったらしく、「実はこの秋結婚するのでね」と、さも秘密を打ち明けるように仰ったのが、そう申しては失礼だが面白かった。侍従長の西園寺八郎氏などは、かなり露骨なことをいって、からかわれていたようである。その当時の皇室は「菊のカーテン」の奥深く閉ざされていたように思っているが、実際にはそんなことはなく、君臣ともども和気あいあいとした雰囲気であった。

ただし、いつもうるさいのは下っ端の小役人で、家では殿下のためにとっときのアイリッシュ・リネンのシーツご用意してあったのに、羽二重でなくてはいけないと注意され、母は烈火の如く憤った。───羽二重のシーツなんて聞いたこともない、あんなつるつるしたものの上で、殿下がお休みになれますか。宅では一切そんなことはいたしません。いやなら止せといわんばかりの見幕に、宮内省から下見に来た人たちは、這々の体の体で逃げ帰った。』

 

「下っ端の小役人」とは、ある意味ではひどい言い方だけど、役人になれば誰もがそうならざるを得ないのですよ。だから、役人は少ない方がいいのですね。

その話とも関連するが、皇室に対する過度の対応とかは、深田祐介氏の本にもありました。彼が子どもの頃、江ノ島の海岸で皇室の方々が海水浴をしているのに遭遇することがあったが、特別なことはなかった。しかし、彼が徴兵されて、上官が講話の中で天皇や皇室のことに触れる時、全ての軍人は直立不動して特別に威儀を治してから言葉にしたり聞くことになっていたと。びっくりしたと述べていましたね。

『白州正子自伝』

白州次郎・白州正子の名前はある種の人たちには名高いが、私はあまりいい感じは持ってなかった。何も知らないが、お金持ちの趣味人くらいに思っていた。例えば、魯山人くらいに思っていた。魯山人も名高いが、金沢の○○さんから学んだので本体はむしろそちらだと思っている。

しかし、『白州正子自伝』を読んで、彼女らは終戦直後の日本に必要な人であったと。また戦後はこういう人はいなくなったと。

白州正子も次郎も恵まれた環境にあったのは確かだ。しかし、魯山人とは逆に、吉田茂外務大臣、のちの首相の本体はむしろ白州次郎ではなかったかと思うくらいである。私は吉田茂を評価しないが、吉田茂がGHQの信頼を得たのは白州次郎のおかげも大きかったのではないか。

さて、話は変わって『白州正子自伝』から引用します。

『外国を多少でも知っているものには、戦争は負けるに決まっていたし・・・。昭和十六年(一九四一)十二月八日、ハワイの開戦を新聞で知った時は、さすがに興奮した。海軍の祖父の血が騒いだのである。それも一瞬のことで、早く東京から逃げださねば、と思ったが、政府も軍部も呑気なもので、バケツのリレーと箒一本で爆弾が防げると信じていたらしい。まだ、「疎開」などという言葉はは誰も知らなかったし、東京から逃げだすなんて、それこそ非国民の見本のようなものだった。

 私たちは、二年ほど前から、東京の郊外に田圃と畑のついた農家を探していた。・・・売家はいくらでもあったが、いずれも帯に短し襷に長しで、探すだけに一年以上もかかってしまった。

 

かつての鴨川村の人々には、どんなに感謝してもし切れない気がしている。子供たちもすぐチビ立ち飲み共同体にとけこみ、毎日野山を走り廻っていた』

戦前に外国に行っていた日本人も多くいるが、この白州夫妻のように敗戦を見越して早くから疎開した人はほとんどいないのではないか。国内が爆撃で焼けるようになったのは、終戦の一年前くらい前ではなかったか。

 

「レット イット ビー」「7時のニュース・きよしこの夜」

「レット イット ビー」と「7時のニュース・きよしこの夜」を聴いた。

2つとも中野善壽(なかの よしひさ)氏の好きな曲だそうです。中野さんは、台湾で幾つかの財閥系企業らの立て直しや寺田倉庫やアカオホテルの経営をやった人です。

中野さんのことで、私が知っているのは休業中の熱海のアカオホテル本館を使って現代美術の展示をやった時です。その時は連日に渡り大勢の人出があり、かつ私にとって内容もとても面白かった。これは休業中の廃墟手前のアカオホテル本館の厄払いになったと思います。スピリチュアル的な意味でも。

 

当時のアカオホテルは本館は休業中で100億以上の借金がありました。創業者の赤尾家がどうにもならず中野さんに経営を任せたのです。なぜ創業家が中野さんに任せたのか。もちろん実績はあるが、中野さんが世間的な欲のない人だからも大きかったと推測します。

中野さんは、台湾の財閥系企業らの時も寺田倉庫の時も業績を上向けたら完全に身を引いて創業家に経営を戻しています。かつてのヤマハなどの例とは違います。

 

中野さんは、不動産も車も持たずホテルやマンスリーマンションみたいな所で、月に50万くらいで生活しているそうです。50万の半分はその時のお手伝いさんの給料だそうで、それを上回る収入は若い頃からずっと寄付をしてきたそうです。漂泊のお坊さんみたいな面のある人だと思いました。

アカオホテルのことに戻ると、中野さんは1年間経営して内容を整えて外資系のファンドに売却しています。中野さんに言わせると創業家のままでの再建は体力(資金)がないから無理だということのようです。創業家がそれを了承したのは、中野さんに対する信頼があったからだと思います。もちろん、創業家には資産や何らかの事業を残すようにしたはずです。創業家にとっては100億の借金のアカオホテルと道連れでずるずる破産に向かうより、その方がいいという判断なんでしょう。中野さんはアカオホテル再建の時は給料をもらってなかったらしいです。でも、中野さんが気を使ったのは従業員たちの雇用確保らしいです。そして、たぶんアカオホテルも再建の道に進むのではないかな。中野さんが道をつけたから。

 

話を最初に戻すと、サイモンとガーファンクルの「7時のニュース・きよしこの夜」は、クリスマスソングが流れる中、7時(たぶん夜の)の定時のニュースが流れているというシチュエーションです。

私にとっては、クリスマスの時に、イギリスの下宿にいて、独りでクリスマスソングと7時のニュースが聞こえているようなイメージでした。孤独だけど、それがいいような少し若い甘酸っぱいようなイメージでした。

ビートルズの「レット イット ビー」も「7時の・・・」に似て、改めて聞いてみるとやや感傷的な曲でした。感傷的な中にも、ありのままでいいんだよとスピリチュアルな声を独り聞くようなイメージでした。

 

 

 

 

越智啓子のカウンセリング

『悟りから祈りへ』鈴木秀子・野口法蔵から引用します。

「復活を繰り返す五体投地」より

『・・・十四年前でした。当時はとても苦しみました。熱が出て下痢が続き、背骨が痛み手も上がらず、体の節々が痛むのです。ちょうどインドに行っていた前後でしたから、何か悪い菌に感染してしまったかと思い、早く病院にかかって抗生物質でも処方してもらわないと行けないのかと考えました。

そのとき、精神科医の越智啓子先生が、「それは前世であなたが象に背中を踏まれて処刑されたことによるカルマよ」と言ったのです。私はそれを聞いた瞬間に、不思議と「へえ」と納得してしまい、それから急に体の具合がよくなりました。五体投地も前と同じようにできるようになりました。

越智先生によると、処刑された理由は、当時奴隷でもあった私が、使えてもいたお姫様とかけおちしようとしたからでした。駆け落ちに失敗して捕まり、象踏みの処刑に遭ったというスートリーでした。そして「そのときのお姫様が今の奥さんよ」と言われました。その話を聞いて以来、私たち夫婦の関係も変わりました。それまでは妻に対して、過ごしムットすることや、気が利かないなと思う部分もあったのですが、「👸なら仕方ない」と思い、それですべてが楽になりました。そして、五体投地で両手がパッと上がるようになり、足踏み状態にあった境地をクリアすることができました』